デジタル時代にこそ知っておきたい 触覚の世界

2024年4月12日 

リビング編集部

現代のデジタル社会では、普段使う感覚が聴覚・視覚に偏りがち。ときには実物に触れる〝触覚〟に意識を向けてみては。さまざまなジャンルの専門家に話を聞きました。

イラスト/オカモトチアキ

生物に備わったもっとも原始的な感覚

「触覚とは皮膚、つまり体の内外の境界部分が感じる感覚。視覚や聴覚のない原始生物でも、全身を覆う膜はあります。それが外部からの刺激を感じ取ることで、危険を察知し逃げることもできます。触覚は〝生命が命を守るために最初に獲得した感覚〟といえるでしょう」。そう説明してくれたのは、視覚・触覚に関する研究を長年続けている立命館大学名誉教授・東山篤規(あつき)さん。皮膚があるところ、つまり全身に触覚はありますが、中でも敏感なのが唇と指先とのこと。

「かばんの中を指で探れば、家の鍵、手帳など見なくても触れている物がわかるでしょう。過去の触覚の記憶から、脳でイメージ化しているのです。服飾業界のディーラーには、布を触るだけで綿、化繊といった繊維の大体の割合がわかる人もいる」といいます。

「見た目に惑わされない触覚は、ものごとの本質を伝える感覚として19世紀ごろまでは重んじられていた」のだとか。

しかし、近現代に入り、人が受け取る情報のうち9割以上が視覚と聴覚から、ということが明らかに。「情報化社会において、触覚の重要性は低くなっていきました」

感情を送受信する大切な役割も

情報を得るうえで重要な視覚や聴覚。

「しかし、人間は情報のやりとりだけで生きているわけではないですよね。わたしたちには感情があります。その感情の醸成、発現にとって触覚はとても大切なのです」と東山さん。

「恋人や配偶者、子どもなど自分にとって親しい人と一切触れ合わない生活は考えられるでしょうか。積極的に手をつないだりハグしたりしますね。それは情報を得るためではありません。触れることで相手への愛情や親しみを伝え、自分も受け取っているのです。

メンバー同士がハイタッチやハグなどのスキンシップをよくするスポーツチームのほうが、あまりしないチームよりも勝ち数が多い、という研究結果(※)もあります。スキンシップが心をつなげる一助になっているのでしょう」

デジタルコミュニケーションが普及した今、実際に会って触れ合うことも大切だといいます。

「触れ合うことは、情報交換ではなく〝心の交換〟なのです」

(※)Michael W. Kraus, Cassy Huang, Dacher Keltner「Tactile Communication, Cooperation, and Performance:An Ethological Study of the NBA」

【教えてくれたのは】
立命館大学 名誉教授
東山篤規さん

@子育て
触れ合いがはぐくむ親子の絆

子どもの〝愛着形成〟の点で、触れ合うことの大切さを教えてくれたのは、同志社大学心理学部教授・興津真理子さん。

「子育てにおける〝愛着形成〟とは、特定の人との特別な絆をつくることを指します。そしてそれは、触れ合いによって生まれるもの。お母さんが授乳時などに赤ちゃんを抱っこすると、母子ともに『幸せホルモン』とも呼ばれるオキシトシンが分泌されます。赤ちゃんはお母さんを〝特別な存在〟と感じ、お母さんも子どもをいとおしく思う。そうして双方の愛情が高まり、特別な絆ができていくのです」

〝愛着〟は、父親やほかの家族に対しても触れ合うことで形成されるといいます。

「家族との間にできたこの特別な絆は、いわば子どもにとっての安全基地。何があっても戻れる場所がある、と思えば、外の世界にもどんどんと出ていけます。そして、家族を信頼するように世の中の人を信頼することができ、安心して人との関わりを持つことができるのです」

特に幼児期まではたっぷりとスキンシップを、と興津先生。

「寝る前などスキマ時間の〝ちょい抱っこ〟でもいいのです 。機会があるたびに触れ合うことを意識しましょう」

【教えてくれたのは】
同志社大学 心理学部 教授
興津真理子さん

@アート
触れる鑑賞がもたらす豊かな時間

作品に手で触れることで、美術の楽しみ方の可能性を広げるワークショップがあります。京都国立近代美術館が2017年より実施している「感覚をひらく—新たな美術鑑賞プログラム創造推進事業」の一つの取り組みで、〝障がいの有無にかかわらず、だれもが楽しめる美術鑑賞〟を実現する試みです。同館学芸課の松山沙樹さんに話を聞きました。

「ワークショップ『手だけが知ってる美術館』は毎年1、2回開催。視覚障がいのある人とない人が数人ずつ同じグループとなり、陶器やガラス、金属製などの立体作品に触れて、対話しながら鑑賞するというものです。

グループで触って鑑賞。「何に使うもの?」など、会話が作品のイメージをふくらませます
1つの作品に触れるのは15~20分。ゆっくり時間をかけて鑑賞できる貴重な機会

ある回では、視覚障がいのない人は最初アイマスクをし、全員触覚のみで作品と向き合いました。視覚での鑑賞では一瞬で作品の全体が見えますが、触る鑑賞では触れている部分しか情報が入ってきません。その分、『ここは柔らかい』とか『ここは同じ型を使っている』など、細かな情報をキャッチする人も」

視覚的にはゴツゴツした印象の花入れも、触ってみたら意外と丸みが感じられる、というように、見るだけではわかりにくい作品の一面に気が付くこともあるのだとか。

触覚を意識することで日常に変化も

触り方の違いも、おもしろい発見なのだそう。

「視覚障がいがある人は触り方が丁寧かつ広範囲です。作家の指あとなど、より細かい特徴を見つけて教えてくれることも。ほかのメンバーからは『自分では触っているつもりが十分ではなかった』という感想も聞かれました」

後半では、視覚障がいがない人がアイマスクを取り、目で見た作品の印象を説明。視覚と触覚のギャップを楽しみつつ、作品についての理解をより深めました。

大きな立体作品や、美術館の壁・床に触れて感覚の違いを味わった回も
鑑賞時の写真3点撮影/衣笠名津美

「動画を倍速で見るなど情報を効率よく得る昨今において、触れることで一つの作品にじっくり向き合うのは、普段と違う時の流れを感じる豊かな体験だと思います。

ワークショップで得た触覚の新鮮な感覚を日常にも取り入れ、物への新しい視点が持てたという参加者もいますよ」

※今年は夏以降で実施予定。詳細は同館ホームページで随時公開されます

【教えてくれたのは】
京都国立近代美術館 学芸課
松山沙樹さん
撮影/成田舞

@テクノロジー
未来の暮らしを彩る触覚技術

テクノロジーの分野でも触覚は注目されています。新たな触覚技術を体感しに、訪れたのは京セラ本社。

デモ機のタッチパネルに表示されたボタン(画像)を押すと、カッチンという衝撃が指に伝わります。押しボタンを押したかのようなリアルな感覚です。実際にはないものの触覚を感じさせるこの技術について、京セラディスプレイ事業本部の山本正憲さんが説明してくれました。

「これは、当社独自の触覚伝達技術『HAPTIVITY®️』(ハプティビティ)によるものです。部品に組み込まれた圧電セラミック振動素子が指の押圧を検知し、ボタンを押す触感をリアルに再現しています。さらに、振動の大きさやタイミングを変えて異なる触感にすることもできますよ」

ボタンごとに異なる押し心地が体感できるHAPTIVITY®️のデモ機
自動車のハンドルを想定したデモ機。触感をたよりに右手親指で操作可能

試しに別のボタンを押してみると、軽い押し心地やしっかり強く押し込んだ感じなど、同じパネル上なのにまったく違う感覚です。

「人の感覚神経にどんな刺激を与えればボタンを押しているように感じるか、それを検証し、振動を調整しています」

いわば〝触覚を錯覚させる〟この技術、すでに採用が決まっている商品もあるそうですが、将来的には幅広い活用が期待できるのだそう。

「押す感覚があるので、ボタンを見なくても操作がしやすいのです。

車のハンドルと一体化すれば、前方から視線を外さずに手元で電話応答や音楽のボリューム調整などが可能に。

医療機器に取り入れれば、患者を診ながら片手で操作する、ということもできるでしょう」

VRでも求められています

さらに技術が発展し、さまざまな触覚が再現可能になれば、「より大きな変化を社会にもたらす」と山本さん。

「触感を共有できるロボットを使って危険な作業も遠隔で正確に操作できたり、通信販売で見ている服の手触りが家で同時に確かめられたり。触覚の情報が加わることで安全性、利便性などが格段に向上するでしょう。

VR(バーチャルリアリティー=仮想現実)の活用も広まっていますが、視覚・聴覚だけだとやはり違和感がある、という声も。触感が搭載されれば〝没入感〟はさらに増して、私たちはよりリアルな世界を体感できるのではないでしょうか」

【教えてくれたのは】
京セラディスプレイ事業本部
山本正憲さん

(2024年4月13日号より)