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歴史を知るヒントは地下にあり 発掘で発見 町の新事実

2020年9月4日 

リビング編集部

発掘調査により、町の新事実が続々と明らかに! 最近も京都のさまざまな場所で遺跡や埋蔵品が出土しています。そこから分かる、かつての町の姿とは?

イラスト/オカモトチアキ

町を歩いていて時折見かける、「発掘調査中」の表示。歴史的発見の舞台は、実は身近な場所かもしれません。

そこで、令和に入ってから発表された京都府内の発掘調査結果をピックアップ。

例えば〝掘れば何かが出てくる〟と噂の京都市中心部(CENTER)。織田信長、豊臣秀吉などのビッグネームに関わる新事実が見つかっています。千年の都「平安京」の姿も明らかに。地下に眠るさまざまなメッセージが、町の歴史を伝えてくれます。

足利義政の造営とみられる〝花の御所〟の庭園跡

「室町殿」の庭園跡で出土した景石

庭園の跡から感じる、室町時代の華やかさ。烏丸今出川の北西にあったとされるのが「室町殿」。〝花の御所〟ともいわれた、将軍のための邸宅です。京都市埋蔵文化財研究所の発掘調査で発掘されたのは八つの「景石」、つまり庭園に置かれた石です。8代将軍・足利義政が設置したと考えられます。サイズは大きなもので全長2m以上。6個の石が滝のように組み合わされていました。

仙洞御所の地下に眠る秀吉最後の城

「京都新城」の石垣と堀

京都御苑内、京都仙洞御所の地下に〝幻の城〟の痕跡が! 豊臣秀吉が生涯最後に築いた「京都新城」はこれまで遺構が発見されず、実態は謎に包まれていました。ところが、京都市埋蔵文化財研究所の調査により南北約8mの石垣と堀が出土。堀の中からは桐や菊の文様の金箔(きんぱく)瓦が見つかりました。32万㎡にもおよんだという「京都新城」。秀吉晩年の政権構想を探ることにもつながりそうです。

戦国の人々を守った堀が府庁内で発見

戦乱続きの戦国時代。京都では町の人々も、身を守るための対策を取っていました。防御施設「構(かまえ)」はその一つ。京都府埋蔵文化財調査研究センターが行う京都府庁内の調査で、構の一部とみられる堀が見つかりました。堀の南側には守るべき建物があったとの推測も。堀は1467年に始まった応仁・文明の乱以降に造られ、短期間で埋められたと考えられます。

信長が築いた城の堀跡が室町通を横断

「旧二条城」の堀跡

室町幕府15代将軍・足利義昭のために、織田信長が建てた「旧二条城」。その城の中心部(内郭)を囲ったとされる堀跡が、室町下立売の北東で発見。京都市文化財保護課によると、この場所は内郭の北西角に当たるとみられるとか。堀跡の幅は約11m、深さは最大で3mです。注目は中世のメインストリートだった室町通を横断する珍しい形で、堀跡が西側へ延びている点。櫓(やぐら)などが建っていた可能性があります。

京都市中心部(CENTER)に加え、伏見区・宇治市・城陽市エリア(EAST)や、向日市・長岡京市エリア(WEST)も紹介。縄文時代、古墳時代についての発見もありますよ。

藤原良相邸の庭園の池は平安京最大級

平安時代前期に右大臣を務めた藤原良相(よしみ)。「続日本紀」の編さん者の一人としても知られています。良相の邸宅「西三条第」があったのは、現在のJR「二条」駅の西側。京都市埋蔵文化財研究所の発掘調査で見つかったのは、当時としては屈指の規模の池跡です。大きさは東西約43m、南北27m以上。清らかな水の流れを楽しむ工夫や、小石を敷き詰めた州浜の跡からも、庭園の優美な姿が浮かび上がってきます。

平家の盛衰を感じる平重盛の庭園跡

「平家物語」で描かれた姿は、文武に秀でて温厚。それが平清盛の嫡男・平重盛です。平安時代末期、重盛が構えた平安京内の邸宅「小松殿」は今の南区猪熊通八条上ル東側にあったとされています。その遺構が初めて出土。庭園の池跡とみられ、瓦や土器も出てきました。調査をした「文化財サービス」によると、池内に散乱していた松ぼっくりにはネズミがかじった跡があり、庭や池が放置されていたと推察されるとか。平家の盛衰を感じさせます。

南はここまで!平安京の範囲が明らかに

発掘現場は九条通北側の洛陽工業高校の跡地(南区)。こちらで行われた京都市埋蔵文化財研究所の調査で、かつての都・平安京の南辺の道に該当する「九条大路」の路面と側溝が確認されたのです。北と南の側溝間、約30mの道幅だったよう。さらに、九条大路に面していた「羅城門」周辺にあった「羅城」という城壁の基底部も発見。すでに判明していたそのほかの四辺(※)と合わせ、平安京の範囲が確定しました。※北辺の一条大路は現一条通、東辺の東京極通は現寺町通、西辺の西京極大路は現葛野大路の西側

本格的な城に改築された秀吉の指月城

指月城跡で出土した金箔瓦

「さすが秀吉の城」、そんな声が聞こえてきそう。豊臣秀吉が築いた初代伏見城。観月橋の北側にあった指月(しげつ)城とも呼ばれるその城が、大規模な内堀を備えていたと分かったのです。京都市文化財保護課によると内堀の幅は30m以上で、二条城を上回る規模。単なる隠居所ではなく本格的な城に改築した証しだといいます。秀吉が好んだ金箔瓦も出土。天下人にふさわしい壮大な城の姿が徐々に判明してきました。

宇治の発展を伝える遺跡 近世には製茶施設も

遺跡から分かる、宇治の歴史の発展。JR「宇治」駅周辺の「宇治市街遺跡」は、宇治市内最大規模の集落遺跡。宇治市では、昨年度に遺跡の一部である宇治橋通沿いの一角を調査しました。すると、平安時代末期~江戸時代の遺構や遺物が出土。宇治に暮らした人々の生活の跡が見つかりました。中世は集落や墓地が展開し、近世には宇治ならではの製茶施設があったとみられています。

木組み遺構から分かる縄文人の水辺の生活

木組み遺構

縄文人の暮らしの実態は? 手がかりは城陽市西部の水主(みぬし)神社東遺跡に。国道24号の拡幅工事に伴い、京都府埋蔵文化財調査研究センターが調査してきた場所です。注目は縄文時代晩期の水辺を利用した遺構。当時、この辺りは水くみ場だったようで、足場のような木組みの遺構や歩きやすく整備した木道が出土したのです。木の実や石器なども発見。周辺に集落があったことがうかがえます。

最古級の大型古墳で初の河原石積み石室

河原の石で造られた「五塚原古墳」の石室

〝卑弥呼の墓〟との説がある「箸墓古墳」を知る一歩に。向日市役所近くにある「五塚原(いつかはら)古墳」。向日市埋蔵文化財センターの調査で発見されたのが、河原の石を積み上げた竪穴式石室です。出土した土器により古墳時代初頭に造られたことが確定しました。同時期の石室は加工した石を使っているので、最古級の古墳としては初の河原石積み石室の発掘例。同じ時代に築かれた箸墓古墳の石室を探るカギになると期待されています。

仁和寺円堂院と同型の瓦が示す宇多上皇との関わり

仁和寺と同型の軒平瓦

「開田院(かいでんいん)」とは、仁和寺と関係があり宇多上皇が住んだとされる平安時代の寺。〝開田〟は今も長岡京市の地名に残っていますね。長岡京市新庁舎の建設に伴う発掘調査で、古墳時代から近世までの遺構や遺物を発見。柱穴から見つかった「軒平瓦」は仁和寺円堂院跡で確認されたものと同型でした。長岡京市埋蔵文化財センターによると、瓦の出土数が少ないため開田院そのものではなく、関連施設だと考えられるとのこと。


地域の歴史・文化を知るため遺跡を記録し後世へ

「何が出てくるかは、掘ってみないと分かりません」

そう話すのは、京都府埋蔵文化財調査研究センターの筒井崇史さん。同センターでは、京都府内の埋蔵文化財の発掘調査を行っています。

「遺跡からは昔の人々の生活、文化、政治などさまざまなことが分かります。発掘調査は工事などに伴い実施。地下に眠っていた遺跡を図面や写真で記録をし、後世に伝えることが目的です」

記録された調査結果は、将来の歴史研究にも役立つといいます。

「京都市中心部は古くからずっと人が住み続けている土地。生活の痕跡は上書きされていっているので平安京に関わる遺跡は残りにくい傾向があります。城陽市、長岡京市などは田畑として使われてきた土地が多いため、縄文時代や弥生時代の遺跡が見つかることがありますね。地域の歴史を知ることは、アイデンティティーの育みにもつながると思います」

〝歴史〟として知られていることが、時には発掘により覆る場合も。今後の発見も楽しみです。

(2020年9月5日号より)