外観からでは分からない その歴史、その技術

山下慶秀堂

左京区の静かな住宅地の一角にある「山下慶秀堂」

山下慶秀堂

「調べ緒は、まず太さが一定でないとなりません。麻の皮は根元と先のほうでは幅が違うので、『細くなりそうだな』と感じたら、適当な幅の皮を加えるんです」と山下さん。この加減は、経験を積んで両手に覚えさせるしかないといいます

山下慶秀堂

2階の軒下に、アク抜きをした麻の皮が干されていました。この後、機械で打ち、やわらかくして使用します

山下慶秀堂

調べ緒は音程に関わる重要な役割を担います。演奏者は、右手で鼓を打ち、左手で調べ緒を締めたり、ゆるめたりして調節するそう

全国に一軒、〝調べ緒〟は
鼓の〝命の綱〟

山下慶秀堂 左京区

能や歌舞伎などのおはやしに欠かせない鼓。これらを演奏する際に握る朱色の綱が〝調べ緒(お)〟。「山下慶秀堂」は全国で一軒という調べ緒の工房です。鼓の音色は、この調べ緒の良し悪しで大きく左右されるため、〝命の綱〟と呼ぶ演奏者もいるのだそう。

現在、82歳の山下雄治(ゆうじ)さんが、この仕事に就いたのは19歳のころ。

「家業の工務店の手伝いで、先代である師匠の家を訪ねたのがきっかけです。そこで調べ緒に出合って魅せられ、弟子入りをしました」

調べ緒の材料は栃木県鹿沼(かぬま)産の麻の皮。1週間ほど水に漬けてアクを抜き、干して、専用の道具で打ったものを、より合わせて綱にします。30を超える工程を経て完成する調べ緒づくりの中で最も難しいのが、何本かの麻の皮を両手にはさんで滑らせるようにする作業だとか。

「この作業を〝なう〟といいます。師匠から教えてもらったのは〝柔らかく硬くなえ〟だけ。独特な言い回しでしょう(笑)。調べ緒は、伸びても戻る硬さと、手にしっくりくる柔らかさの両方が求められるんです」

こうした手仕事の奥深さや魅力を伝えていきたいと同工房では製作工程の見学も実施しています(参加費2000円、要予約)。

たる源

大和大路通に面したお店。ショーウインドーはありますが、ひっそりとした印象です

たる源

建物を入ってすぐ右手にある和室に商品が置かれています。気に入ったものを買っていく人もあれば、ほしいものを注文しに訪れる人も

たる源

現在、修業6年目の基嗣さん。おけの底板をはめる前にカンナをかけて、大きさを微調整。小さすぎれば水がもれ、大きすぎればおけが割れる―。繊細で気を使う作業です

たる源

道具がかけられた作業場の壁。カンナひとつとっても、削る部分や工程によって、「外ガンナ」「内ガンナ」「やりガンナ」「底回し」(左右に持ち手の付いたカンナでおけの底板を削るのに使う)などさまざま

親子2代、祇園で作るおひつや
寿司おけ

たる源 東山区

大和大路通を三条通から下がったところにある「たる源」。あまり目立たない店構えのため見つけることができず、帰ってしまったお客さんもいるとか。

「もともと、祇園のこの辺りのお店はあまり看板を出さなかったらしいです。最近はそうでもないのですが、うちは今も変わらず」と笑うのは、同店の川尻基嗣(もとつぐ)さん。

明治時代の初めから、おけや酒だるなどを制作してきた「たる源」がこの地に工房兼店舗を構えたのは1923年(大正12年)のこと。現在は、5代目である父の洋三さんと2人、朝の8時から午後6時ごろまで、おひつや寿司おけ、風呂おけなどを造っています。

材木を割って乾かし、削り、竹クギでつなぎ、底を入れて…が一連の手順。

「作り手によって多少の雰囲気の違いは出るかもしれませんが、用途で寸法と木の厚みが決まっているので、あまりこだわっていません。一番大事なのは材料の木です」と基嗣さん。

その言葉どおり、酒器に向くスギは奈良県の「吉野杉」を、水回りの器に使うマキは信州の「高野槙(こうやまき)」をと、現地での素材調達を、親子ともに大切にしているそうです。

羽與兵衛

「いちげんさん向けの商いではないので、のれんは内側にかけています」と吉羽さん。のれんは、祖父が建仁寺元管長の竹田益州さんから贈られたそう

羽與兵衛

現在はこの建物は工房のみですが、吉羽さんが幼いころは家族7人で暮らしていたこともあるとのこと

羽與兵衛

千利休の時代から、形・製法を変えずに造られているという茶釜

羽與兵衛

中庭には鉄を溶かす炉(ろ)が設置されています(右手前)。鉄は湿気を嫌うため、作業は雨の日には行わないなど、天候に左右されることも

羽與兵衛

ヤスリをかけて表面をならす作業は、「使っていただく方の手になじむようにするためです」と吉羽さん。この後、漆で色を付け、仕上げます

女人禁制の空間で生み出される、茶釜の数々

吉羽與兵衛(よしはよへい) 工房 南区

表を通るとコツコツ、コツコツという金属を打つ音。「吉羽與兵衛工房」は茶の湯で使う釜を造っています。

10年前に襲名した三代・吉羽與兵衛さんによると「初代が『千家十職(※)』の釜師・大西家に弟子入りをし、30歳で創業を許されたとき、この地に工房を開きました。94年前の当時、この周辺は民家もない空き地だったそうです」と話します。

鉄を溶かして鋳型に流し込む作業工程で炭の火を使い、煙や音も出るので街中を避けてこの地を選んだのではないかと考えられるそう。

玄関を入ると応接間があり、その奥の扉を開けるとそこは12畳ほどの広さの工房。ここで千利休の時代から伝わっている型に合わせ、今も当時と同じ製法でいくつもの茶釜が生み出されます。

ちなみに工房は、女人禁制。諸説ありますが、と前置きして「仕事場におまつりしている火の神さまは女性で、普段お願いごとをしてばかりいるのに、そこに女性を入れるとケンカになるとか」と吉羽さん。

吉羽さんの茶釜は7月25日(水)~31日(火)に京都髙島屋で開催される展覧会で見ることができます。

※千家十職…茶道の千家好みの茶道具を作ることができ、出入りすることを許された十の職家を指す尊称

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