廣瀬由仁子さんが実家の隣に新居を構えたのは、結婚してすぐのこと。
「実家の隣のお宅が空くことになり、母が私たち夫婦にどうかと話を持ってきたのがきっかけ」なんだとか。廣瀬さんは高校卒業後、ずっと親元を離れて暮らしてきたからこそ「なんとなく近くにいたい気持ちもあり、ここに住むことを決めました。母は購入の頭金を用立ててくれましたが、主人に肩身の狭い思いをさせてはいけないと、家の名義は父・母・主人・私の4人の名前を連ねることに」。
それから数年後、母のきよ子さんにがんが発覚。症状が悪くなり寝たきりの状態になったときも「隣という距離だから、本当に介護しやすかった。遠く離れていては、母の最期をしっかりとみてあげることができなかったと思います。高校卒業後に家を離れたのは、母への反発もあって。でも、縁あって隣の家に暮らし、母と一緒に台所に立ったり、育児で大変なときに助けてもらったりと、たくさんの思い出がつくれました。母には感謝をしています」。
今は、80歳を越えるお父さんと程よい距離を保ちつつ、協力しあいながら〝お隣さん生活〟を楽しんでいるとか。きよ子さんが思い描いた暮らしが、いまもそこにあるようです。
「結婚前に実家の整理をしていたときのこと。幼稚園時代の絵や工作などが入れてある〝思い出箱〟から出てきたのは、自分が生まれた日の朝刊でした」という山本紗和子さん。「母は新聞の存在さえ覚えていなかったようですが、もしかすると父が残していたのかもしれません」
山本さんは両親にとって初めての子であり、「本当に大切に育ててもらった」と言います。
「生まれた日の新聞を読みましたが、大事件もなく取り立てて残しておく理由がなさそうな内容でした(笑)。でも、日付けに花丸が付けられていて。私が生まれたことがうれしくて仕方なかったんだなと、あらためて両親の愛情を深く感じました」
新聞は結婚の際に両親からプレゼントされたそうですが、実は今も実家の思い出箱の中に―。
「整理をしているとき、何も言わずにソファーに座っていた父の姿が少しさみしそうに見えたんですよね。もしかしたら、両親が今でも見返しているのではと思っています」
「子どもが生まれたときは、私も絶対にその日の新聞を残しておいてあげたい」という山本さん。家族の愛情の連鎖は、次の世代にしっかりとつながっていくようです。