さわやかな秋空の広がる行楽シーズン到来! “紅葉の錦”を愛する気持ちは、今も昔も変わりませんよね。「百人一首」誕生の地・京都には、歌や歌人と関係の深い場所が数多くあります。百人一首愛好家の案内のもと、いにしえの時代に思いをはせながら、秋の彩りを楽しんでみませんか?
「この歌は、百人一首では“雑”に分類されています。雑というのは、四季や恋以外の歌ということ。平安中期の貴族・貞信公(藤原忠平)が、名所小倉山のモミジに自分の思いを託した歌です」と京都百人一首・かるた研究会代表の河田久章さん。
歌に登場する小倉山は、右京区嵯峨の桂川沿いに位置する小山。かつて、嵯峨嵐山一帯は貴族の別荘が点在し、百人一首の生みの親である藤原定家(以降・定家)も、山荘を構えていたのだとか。「定家が、鎌倉幕府の武士で歌人でもある蓮生(れんしょう・宇都宮頼綱)に頼まれて、歴代の歌人の歌を色紙に書いたのが百人一首です。定家と蓮生は大の仲良し。蓮生も同地に別荘を持っていたので、そこで持ち上がった話ではないでしょうか」
百人一首を選定した山荘は時雨(しぐれ)亭と呼ばれ、江戸期の観光ガイド・都名所図会では、山麓の常寂光寺、二尊院、そして厭離庵(えんりあん)の3カ所が紹介されているとか。現在も諸説ありますが、いずれもモミジの美しさが往時をしのばせる場所です。
平安初期に嵯峨天皇が離宮として建立した旧嵯峨御所大覚寺門跡。一般的に大覚寺と呼ばれ、その境内東側に広がる大沢池は、建立に合わせて造られた庭苑池(ていえんち)です。「名古曽(なこそ)の滝」も池の一部として造成されたものですが、現在は国指定の名勝地として滝跡が残されています。
大覚寺・大沢池では、ひんぱんに歌会などが催され、平安時代の貴族の人気スポットだったとか。
「この歌を、平安中期の貴族で歌人の藤原公任(きんとう)が詠んだときには、すでに滝の水は枯れていたことがうかがえます。拾遺集という歌集に、公任が“瀧のいと”と呼んだバージョンが掲載されていて、誰が“瀧のおと”と変えたのか気になるところです」と河田さん。滝に水が流れる様子を“いと”と表現した、公任のセンスがすてきですよね。