「定家が歌を選定したという建物は、現存しません。しかし、当時はこんな雰囲気だったのではないかと思わせてくれるのが、厭離庵(えんりあん)です」と河田さん。
1面でも紹介した厭離庵は、蓮生の山荘旧跡に位置するお寺です。
「定家は、蓮生に頼まれ、山荘のふすまを飾るために、色紙に百人一首の歌を書きとめていったそうです。蓮生は、幕府の御家人でしたが権力争いを避けて出家したという経歴の持ち主。厭離庵には、彼の厭世感が今も漂っているように感じます」
蓮生ゆかりの場所をもうひとつ。洛西・西山の中腹に立つ三鈷寺(さんこじ)です。蓮生は、同寺の西山上人に深く帰依していました。いまは、本堂横の華台廟(びょう)に、西山上人とともにまつられています。
また、本堂を背にして立つと、比叡山をはじめとする東山三十六峰、北山、京都市街、大山崎や宇治、木津方面まで一望できます。平安時代に創建されたお寺なので、蓮生もこの眺めを目にしていたかもしれませんね。
三鈷寺の北側に、善峯寺が位置。かつて百人一首歌人の慈円が両寺の住職を務めていたのだとか。
嵯峨嵐山が貴族の別荘地だったのに対して、「大原は比叡山の僧侶たちが隠棲(いんせい)する地でした。僧侶のもとを多くの文人や歌人が訪れ、文化的な風土が培われたのではないかと思います」。
大原住まいの寂しさを詠んだ良暹(りょうぜん)法師。交流のあった西行法師も、大原にこもっていたことがあり、「音無の滝」を題材にした歌が、ほかの歌集に残されています。
そのほか、定家、藤原家隆、藤原雅経、紀貫之、和泉式部、伊勢大輔など多くの歌人が大原を訪れたそう。静かな山里のそこかしこに、百人一首歌人たちゆかりの地が点在しています。
「わが庵は 都のたつみしかぞ住む 世をうぢ山と人はいうなり」と詠んだ喜撰(きせん)法師。
「“うぢ”は宇治のこと」と河田さん。宇治市の宇治川東岸、朝霧橋の東詰めに位置する宇治神社(JR「宇治」駅から徒歩約13分)の本殿鳥居前には、その歌碑が建立されています。
藤原定頼も、宇治川に立ち込める朝霧をモチーフに一首。宇治川中の島には柿本人麻呂の歌碑が。紫式部も、百人一首の歌人のひとり。
「いずれもこの地を中心に、百人一首のゆかりがあることを伝えています」
京都百人一首
かるた研究会代表
河田久章さん
「京都は、百人一首に関係する場所や歌人ゆかりの地が多くあり、いろんな楽しみ方ができる、すばらしい土地柄です」と話す河田久章さん。幼少から百人一首とかるたを楽しみ赴任地の東京で定年を迎えた15年前、百人一首誕生の地・京都へ引っ越してきたという“百人一首愛好家”です。8年前に立ち上げた「京都百人一首・かるた研究会」では、講演会やウオークなどを通して百人一首の魅力を伝えています。
「現在知られている百人一首は、小倉百人一首のこと。鎌倉時代に定家が百人一首を編さんして以降、ほかの人たちも同様の歌集を作ったんですね。それらと区別するために、室町時代ごろ、定家が居住した山荘のある小倉山の地名をとって小倉百人一首と呼ばれるようになりました。絵かるたとして楽しまれるようになったのは、江戸時代ごろです」
さらに、「定家は自分の好みで歌を選んでいるんですが、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳天皇まで、人間関係や時代背景などが反映されていて、知れば知るほど奥が深い」とのこと。
身近な秋の景色が、1000年以上も昔の出来事とつながっていると思うと、ロマンを感じますよね。