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明智光秀ゆかりの地へ

教養を生かし京都で活躍

教えてくれたのは

らくたび 代表取締役 若村亮さん
京都の歴史・文化についての講座の講師として活躍。リビングカルチャー倶楽部の講座も担当。

織田信長に仕えた光秀。重用された理由の一つとして「京都の文化に詳しかったことが挙げられます」とは、「らくたび」の若村亮さん。
「光秀は教養があり、和歌などにも秀でた文化人として知られていました。京都には朝廷との交渉役として訪れる機会も多かったようです」
本能寺の変や山崎合戦の舞台というだけではなく、京都は光秀にとって信長の重臣としての活躍の場でもあったのです。
若村さんが京都市内の光秀ゆかりの地を紹介してくれました。

本能寺の変の前、
決意を胸に歌会を開催

愛宕神社

愛宕神社の社殿。本能寺の変の数日前、光秀が訪れたとのこと

「ときは今あめが下しる五月かな」。これは本能寺を前に、光秀が連歌会で詠んだ歌。表面上は「今の季節は雨が降る五月」という意味ですが…。

「『とき』には〝土岐〟、『あめ』には〝天〟が掛けられています。つまり『今こそ土岐一族の私が天下を治める』とも読み取れるのです」(若村さん)

連歌会が開かれたのは愛宕神社。「光秀は、当時まつられていた戦の神・勝軍地蔵に必勝を祈願。おみくじを引いたところ、何度も凶が出たとの逸話もあります」

標高924m、愛宕山山頂からの景色

そんな光秀を追い、記者も愛宕山へ。午前9時、清滝の登山口からスタートです。始めの3分の1ほどはきつい坂と階段が続き、息も絶え絶えに…。それでも進むこと約2時間半、何とか愛宕神社の境内に到着! 社務所が立つ場所で、かつて連歌会が催されたといいます。境内の眼下に広がっていたのは京都市街の風景。光秀もこの景色を眺め、天下に思いをはせたのかもしれません。

右京区嵯峨愛宕町1、TEL:075(861)0658

民の声を大切にする姿を伝える
エピソードも

小畠川

光秀の逸話について書かれた看板が目印。幕末の勤王の志士ゆかりの地でもあります

茂みの奥を流れる小畠川

西京区樫原の交差点から西へすぐ、住宅の間を縫って小畠川が流れています。別名は〝明智川〟。果たしてその由来とは?

「光秀の民に対する政策が良かったことを示す逸話に基づいています」と若村さん。「本能寺の変の後、村人が落馬した光秀を助けた上、本能寺が火で焼かれたことを言い当てたそう。光秀が望みを聞くと『川を造ってほしい』と願ったので、この小畠川が築造されたといわれています」

本能寺の変の直後に光秀は山崎合戦で敗れるため、伝説的な面が強いよう。ですが、民衆の声をよく聞いた、そんな光秀の姿が浮かび上がってくるエピソードです。

西京区樫原宇治井町 樫原交差点西側(阪急「桂」駅から徒歩約15分)

坂本城への帰り道、
やぶの中で迎えた最期

明智藪

細い道の先にある〝明智藪〟。今もわずかに竹やぶが見られます

山崎合戦後、光秀は近江・坂本城へ落ち延びようとします。「命を落としたのはその道中。落ち武者狩りを命じられた農民によって討たれたとみられます」(若村さん)

終焉(しゅうえん)の地と推測されているのが、伏見区小栗栖。住宅地の外れにある〝明智藪(やぶ)〟を訪ねました。

新小栗栖街道を西に入り、本経寺方面へ。道にある案内に沿って住宅地の脇の小道を通ります。途中に「明智藪」の石碑がありますが、案内に従いさらに30mほど歩くと開けた空き地に到着。この地で、光秀は竹やりで刺されたといいます。かつて広がっていたやぶを想像しながら、最期の胸中に思いを巡らせてみては。

伏見区小栗栖小阪町 本経寺寺領(地下鉄「石田」駅から徒歩約15分)

11日間の〝天下〟の後、
その体が埋葬された地

明智光秀胴塚

「明智光秀胴塚」。精米所の隣にあります

〝明智藪〟で襲撃された、その後もたどってみましょう。「光秀は襲われた後に自刃。胴体は山科区勧修寺地域に埋葬されたと伝わります」(若村さん)

明智藪から北へ徒歩約20分。山科区勧修寺、小栗栖街道沿いにあるのが明智光秀の〝胴塚〟です。木に囲まれていて道側からは分かりづらいので、見落とさないよう注意を。正面に回ると、「明智光秀之塚」と書かれていました。

「光秀といえば〝三日天下〟。しかし、実際に光秀が討たれたのは本能寺の変から11日後でした。謀反を犯したものの、当時の京都の人々は光秀に好意的だったとも。塚が今も残るのは、その証しですね」

山科区勧修寺御所ノ内町(地下鉄「小野」駅から徒歩約10分、京阪バス「勧修寺」停から南へ約550m)

白川のほとりに
家臣が持ち去った首が眠ります

明智光秀首塚

「餅寅」が守ってきたという首塚。右端が石塔、左端が石碑です

胴塚に埋葬されたのが胴体ということは…。そう、首は別のところに埋められたのです。東山区・白川沿い。三条通を下がり和菓子店「餅寅」を東に入った先に、光秀の首塚があります。

若村さんによると、「自刃した光秀の首は、介錯(かいしゃく)をした家臣・溝尾庄兵衛が持ち去りました」とのこと。「首は蹴上に埋葬されていましたが、江戸時代にこちらへ移動したそう。それを示すのが、隅にある石塔です」

この石塔も、以前の首塚の場所から移ってきたのだとか。ほこらの左側には石碑も。光秀の戒名「長存寺殿明窓玄智大禅定門」が刻まれています。

東山区白川筋三条下ル梅宮町(地下鉄「東山」駅から徒歩約3分)

光秀が築いた城を訪ねて

丹波亀山城跡
光秀が丹波攻略の拠点とするために築いた城。本能寺の変の際、光秀はここから出陣しました。
亀岡市荒塚町内丸1(JR「亀岡」駅から徒歩約10分)、
TEL:0771(22)5561(大本本部総合受付)。午前9時~午後4時30分
※見学の際は受付に声掛けを。観光客用の駐車場なし
福知山城
1579年ごろ、光秀は丹波を平定。丹波の拠点として新たに築かれた城です。
福知山市字内記5(JR「福知山」駅から徒歩15分)、
TEL:0773(23)9564。午前9時~午後5時(入館は4時30分まで)。
入館料は大人330円、小中学生110円

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