教えてくれたのは
同志社大学 文学部国文学科
教授 山田和人さん
江戸時代初期に生まれ、現代でも人気の落語。その起源は、新京極通に立つ誓願寺と関わりがあります。
「江戸時代初期の誓願寺の僧・安楽庵策伝が〝落語の祖〟といわれています」と教えてくれたのは、同志社大学文学部国文学科教授の山田和人さん。
「策伝は、短い笑い話を集めた『醒睡笑(せいすいしょう)』という本を書きました。仏教の教えを、笑いを交えて語った話が収められています。これが後世の落語のネタ本にもなったのです」
山田さんが例を挙げたのが、落語の演目「平林」。〝ひらばやし〟という名字を〝ひょうりん〟〝たいらばやし〟〝ひらりん〟などと読み間違えるというエピソードです。
「この元ネタが『醒睡笑』に載っています。今でも人気の話が多く、笑いのツボは昔と同じなのだと分かります」
「醒睡笑」ができると、これを基に話芸を披露する人が現れます。それが露の五郎兵衛(つゆのごろべえ)。江戸時代前期、北野天満宮の境内などで落語を演じた人物です。
「五郎兵衛は、策伝の集めた小話にパフォーマンスを加え、芸に発展させました。このように野外で行う落語は辻噺(つじばなし)と呼ばれます。
この頃、大きな寺社では遊戯空間が広がっていました。北野天満宮にも芝居や物まね、辻噺をする小屋が立ち並び、多くの人でにぎわっていたようです」
寺社の多い京都は、芸を披露する場所に恵まれていたのですね。
「寺社以外では四条河原があります。江戸時代初期に行われた鴨川の護岸工事以後、四条通に芝居小屋が集まり、河原の中州にはさまざまな芸能や遊戯が繰り広げられました」
アミューズメントパークのようになっていたそうですよ。
狂言とは室町期に成立した喜劇。狂言の曲目「因幡堂」「鬼瓦」「仏師」などの舞台になっているのが、烏丸高辻の東側にある因幡堂(平等寺)です。
「実在する一つの寺が複数の曲目に登場するのは珍しいこと。『因幡堂』は、酒好きの妻と離婚した男が、別の女性との縁結びを祈願しようと因幡堂へ行く物語です。一方的に離縁されて怒った元の妻にだまされて、男はその女と再会する羽目に陥ります」
「鬼瓦」は、京都に来ていた大名が国に帰る前、因幡堂の本尊・因幡薬師に出世のお礼参りをする話。本堂の鬼瓦が、国元の妻の別れたときの悲しい顔に似ていると語ります。
江戸時代初期には誕生していたという「因幡堂」と「鬼瓦」。どちらも因幡薬師の御利益を前提として話が進みます。
「本来は〝がん封じ〟といった病気平癒が因幡薬師の御利益です。しかし、縁結びに立身出世と、当時はさまざまな御利益があると考えられていたよう。落としどころが典型的という狂言の特徴は、新喜劇にも通じますね」
期待通りに進むストーリーを楽しむのは、今も昔も同じなんです。
漫才に影響を与えたとされるのが、平安時代から始まった「千秋万歳(せんずまんざい)」。貴族の間で行われた、新年を祝う行事です。
「扇と鼓、それぞれを持った2人1組で家を回り、門前で芸を披露します。次第に、庶民にも浸透していきました。千秋万歳のスタイルがそのまま現代の漫才に受け継がれたわけではありませんが、2人1組での掛け合いや、〝まんざい〟の名前は、今に通じるかと思います」
京都の笑いの文化は、都市の成立が関係していると山田さんは指摘。
「近世に入り、京都の庶民が豊かになったころに、落語や狂言といった文化が発展しています。つまり、娯楽にお金を払える人が増えたということ。芸を披露できる寺社がたくさんあったという点も見逃せません」
都市のにぎわいが、京都の笑いを後押ししたのです。
「京都では歌舞伎、舞、雅楽など、いろいろな芸能が昔から盛ん。落語のような笑いの芸を見に行く風習も定着していると思います」と、同志社女子大学学芸学部情報メディア学科教授の影山貴彦さん。
「大阪の観客の評価は厳しいですが、おもしろければドッカーン!と爆笑が起こります。一方、京都の人の笑いは控えめですが、表現の仕方が違うだけで、楽しんでいるのは同じです」
漫才の芸風にも地域性の差が表れているそう。
「外見のハンディキャップをとことん笑いに変えるのが大阪のスタイル。京都の芸人は、起承転結がしっかりした漫才をする傾向がありますね」
大阪の漫才と波長が合わない人も、京都の漫才は受け入れやすいのではと話します。
「自分を下げて笑いをとる大阪の芸風は、京都や関東出身の芸人にはあまり見られません。京都の人の笑いのツボは、大阪以外の地域と近いのだと思います」
影山さんはこんな提案も。
「〝チュートリアル〟など、京都は全国的に人気の芸人も輩出しています。地元出身の芸人たちで、〝京都発〟の漫才を全国に向けてアピールするのもよさそうです」
教えてくれたのは
同志社女子大学 学芸学部
情報メディア学科
教授 影山貴彦さん