今年、生まれてン百ン十年!そんな地元ゆかりの人たちを、関わりの深い寺院とともに紹介。歴史に思いをはせ、ゆっくり散策してみませんか。 ※取材協力 京都市歴史資料館・伊東宗裕さん
1554年(天文23年)、嵯峨で生まれた角倉了以(すみのくらりょうい)。朱印船貿易を行った豪商として知られています。
大堰川を切り開く工事に力を入れた了以。岩だらけだった川も船が通れるようになり、多くの商人たちが往来して町は活気づいたそう。
彼が工事の犠牲者を弔うために建立したのが「大悲閣千光寺」です。活気のある嵐山から離れ、大堰川の西側の道へ。なかなかの険しい山道を上った先に、同寺があります。本堂から見下ろす京都市街の景色は上った人へのご褒美のよう。また、こちらには了以像も。目をギョロリとむいた迫力ある姿を見せています。
山から下り、渡月橋を渡って少し北へ行くと、了以が眠る「二尊院」にたどり着きます。角倉家代々の墓があり、ここにも了以像が。小倉山を背に立つ同院で、了以をしのぶことができます。
「このはし渡るべからず」。これに対して、得意のとんちで返した一休さん。そのモデルとされるのが室町時代の僧侶、一休宗純です。1394年(応永元年)に、後小松天皇の子としてひそかに生まれた、という説が有力とされています。
幼少期を過ごしたのが西京区の「地蔵院」。〝竹の寺〟と称されるように、境内には青々とした竹林が広がります。
一休が生まれたのは南北朝の争乱期。北朝の天皇であった後小松天皇に対し、一休の母は南朝の藤原氏の出とのこと。身の危険を守るため、都から離れた草深い土地にある地蔵院で育ったといわれています。この地でもトンチを披露していたのかもしれませんね。
一休がいたころは大きな寺だった同院ですが、今は落ち着いたたたずまいを見せています。涼みたくなったら方丈へ。コケが美しい庭園を座って眺めていると、暑さも和らぎそう。
住宅地を歩いていくと、鮮やかに塗られた朱色の門が目の前に。1380年の歴史を持つ「乙訓寺」です。同寺の責任者を務めたのが弘法大師空海。真言宗の開祖であり、774年(宝亀5年)に生まれました。「弘法さん」や「お大師さん」の呼び名で親しまれていますね。「弘法も筆のあやまり」ということわざがあるように、書の名人としても知られています。
空海のライバルともいえるのが、天台宗を開いた最澄。2人が出会ったのが乙訓寺でした。唐で空海が学んだ密教を学びに、最澄が訪ねてきたのだといいます。密教について熱く語り合ったのでしょうか。
また、空海が境内に実ったミカンを漢詩と一緒に天皇に献上した、という話も。今も境内には、その子孫にあたるミカンの木があります。空海の足跡を見つけに訪れてみては。