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街角の石碑

平安時代、小野小町が使っていた井戸かも…

繁華街の真ん中、少し高い位置にある植え込みの中に石碑はあります。平安時代の小野小町の伝説が、江戸時代、そして現代にも語り継がれています

四条通と西洞院通の東南角のビルの植え込みにあるのは「化粧水」と記した石碑。読み方は、「けしょうのみず」。

石碑横の立て看板を見ると、「化粧水は西洞院四条の南にあり、いにしへ、この所に小野小町の別荘ありしなり」と、1780年に出された書物「都名所図會」の引用が紹介してあります。

小野小町は平安時代の歌人で、その美貌でも名高い女性。詳しい話を京都市歴史資料館の主任研究員・宇野日出生さんに聞きました。

「伝承ですが、この地には小野小町の別荘があったとされています。〝化粧〟という言葉は、平安時代に書かれた『宇津保物語』にも出てきて、そのころから『顔を美しくみせる』という意味で用いられていたようです」。美しい小野小町が使っていたから、邸内の井戸を“化粧水”と呼ぶようになったのでしょうか。

今回の取材では、この石碑をいつ、誰が建てたのかは分かりませんでした。ですが、取材中、今の場所に設置される前はもっと南にあったと話す近隣住人にも出会いましたよ。

鴨川のほとりにあった、日本最初の公立女学校

石碑の西面には「女紅場ハ京都府立京都第一髙等女學校創立當初ノ名稱ニシテ明治五年四月十四日舊九條家河原殿二開設セル者ナリ」と彫ってあります

石碑には、現在につながる歴史の変遷を感じさせるものも多くあります。その一つが、丸太町河原町からほど近い、丸太町橋の西詰めにある古い石碑です。

正面には「本邦髙等女學校之濫觴 女紅場(にょこうば)址…」とあり、かなり古いことが見てとれます。東側の面には、「昭和七年十月」。というと、85年前! 南側には「為母校創立六十周年記念建之 京都鴨沂會」の文字が。そこで、その「京都鴨沂会」に話を聞くことに。同会は、京都府立京都第一高等女学校の同窓会として発足、現在は公益社団法人になっています。対応してくれたのは、1947年に同校を卒業した伊達恭子さん。

調べてみると、女紅場とは明治時代初期に作られた女子のための教育機関のこと。

「1872年、つまり明治5年に開校した女紅場が京都府立京都第一高等女学校の前身で、日本最初の公立の女学校です。石碑には昭和7年とありますが、これは母校創立60周年を記念して旧校舎跡に石碑建立を決定した年。実際に石碑が建ったのは翌年の9月22日です」

この女紅場は、記録によるともともとは華族・士族の子女が対象でしたが、一般にも門戸が開かれ、159人の生徒が学んでいたそう。そして、幾度かの校名変更を経て、1923年に京都府立京都第一高等女学校となり、その後1948年に学制改革により、京都府立鴨沂高校となりました(現在の場所は荒神口通寺町東入ルですが、今は改築のため仮校舎で授業)。

鴨川のほとりの小さな石碑が、京都から始まった公立女子教育の歴史を、静かに伝えてくれています。

バスケットボールが、日本に広まるきっかけに

ボールを両手で持ち、シュートするようなオブジェが目を引きます

学生時代にバスケットボールをしたことがある人も多いのでは。ですが、バスケットボールと、三条柳馬場東南角の京都YMCAが深い関わりがあることを知っている人は少ないかもしれません。ひっきりなしに人が行き交うこの地に、ボールのオブジェがついた石碑があります。

「バスケットボールは、1891年、アメリカのスプリングフィールドにあった国際YMCAスクールのネイ・スミスが考案しました。日本に伝わったのは1908年、東京のYMCAが最初という話もありますが、同時期に京都にも伝わったといわれています」と京都YMCA本部事務局長の加藤俊明さん。京都でバスケットボールを広めるきっかけをつくったのが、佐藤金一さんという人物だそう。

「佐藤金一はアメリカに留学したときに、誕生間もなかったバスケットに出あったそうです。帰国後、京都で教師をしていた彼が京都YMCAで、日本最初のバスケットボールチームを作ったのが1915年。ここから日本のバスケットボールが本格的に始まったといわれています」

京都にバスケットボールが伝わって100年がたった2014年、京都バスケットボール協会(現・京都府バスケットボール協会)によって建てられたのがこの石碑。さらにこれを記念して「The Y cup 京都ミニバスケットボール大会」も開催され、今年で4回目。100周年を機に、さらにバスケットボールの輪が広がっています。

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